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「子供としては結構普通だよ」置かれた環境が自分にとっての当たり前


千代窪さんは大学卒業後、大手企業にて4年間SEを経験され、現在はフリーランスとして5年、事業開発ディレクターをメインにお仕事をされています。2019年10月には友人からの誘いで、未経験の舞台俳優にもチャレンジされたそう。今日はそんな千代窪さんがこれまで育った環境についてインタビューさせていただきます。


インタビュー:MISAKI

取材日:2019年12月14日


” 両親の怒鳴る声に怯える夜 ”

-まずはご家族構成と離婚時のエピソードを教えてください。


 私は2歳上の姉と4歳下の弟の3人姉弟で、祖父母も含めて8人で北海道釧路市の一軒家で暮らしていました。両親は離婚前からよくケンカをしていて、夜中に大声で目が覚めることもありましたね。自分が直接手を上げられていたわけではありませんでしたが怖くて嫌でした。


 小学1年生のある時から、父が帰ってくる時間に母が家の鍵をかけて締め出すようになり、ドンドンとドアを叩く音や玄関での大喧嘩が続きましたが、その後父が車で荷物を運び出して出ていく様子を窓から見たことを覚えています。父とは会話することもないまま、家に帰ってくることはなく、その前後で離婚していたんだと思います。


” 離婚の事実を周囲に知られないように ”

ー離婚後、生活は変化しましたか?


 父がいなくなったことについては、大勢で住んでいた家から一人いなくなったというだけで、特に何も変わらなかったと思います。いつの間にか苗字がかわりましたが、離婚したことについて説明してもらえなかったので、なんとなく理解したという感じです。母も祖母も父を悪く言っていたので、自分から聞きづらかったですね。


 学校では苗字に由来するあだなで呼ばれていたのですが、改姓によりあだなで呼ばれなくなりました。クラスの先生から説明があったのか、名札がかわったのか、その辺りはちょっと覚えていませんね。不思議だなあと感じた程度です。


 でも同級生のゴシップ好きの女子から教室の隅に呼び出されて、コソコソと離婚のことを聞かれたりウワサされたりしたことで、離婚は後ろめたいことや恥ずかしいことなのかと、自分なりに意識するようになったのだと思います。


 特にいじめられたり、からかわれることはなかったのですが、父が出て行ったことは自分なりに隠すようにしていました。具体的には学校の授業で両親へ手紙を書く際や、父親宛の文書が配られる際に自分だけ母親宛であることなど、周囲に知られないよう気にしていましたね。




” いつの間にか大人の男性が苦手に ”

ー身近な大人の男性についてどうお感じでいらっしゃいますか?


 父親が怒鳴る姿を見ただけでなく、離婚後も同居していた母方の祖父の暴力も日常的に見ていました。体力のある祖父で、ソファを持ち上げて投げる姿は今でも印象に残っています。祖母も怯えており、子供ながらに恐怖や悲しみを感じていました。身近な大人の男性がそうであったので、幸せな家庭のイメージはいまでも持てていません。ですので男性が苦手になったこと自体は、シングル育ちであることと関係ないと思っています。


 また、スポーツやアウトドアは父親と楽しむものというイメージがあるからか、「休みの日に野球や釣り、スキーに連れて行ってもらいたかった」という父親像への憧れはありました。でも実際に父親に連れて行ってもらったことはないので、これも離婚と直接関係ないと思っています。休日はほとんど弟と家で遊んでいて、カードゲームやテレビゲームをしていました。

ずっと祖母が家にいたので、母がいない間は祖母が面倒をみてくれていましたが、厳しく何か言われた記憶もなく、自由に好きなことをやらせてもらったと思っています。


” すっかり親戚のお隣さん ”

ー家族以外の大人との接点はありましたか?


 隣に住むお節介おばさん、通称「おばぴー」が、よく家に招いてくれていました。年齢はおそらく母と祖母の中間くらいでしょうか。息子さんもいましたが、自分とは歳が離れていたので友達という感じではありませんでした。


お隣とは言え他人の家は緊張するし、好きで通っていたというわけでも慕っていたというわけでもないのですが(笑)、母親不在で遠出の旅行に連れて行ったくれたこともあり、ほどよい距離感で近所に住む親戚のような存在ではありました。


祖母と仲が良かったため、自分では聞きづらかった父のことも聞かずとも話してくれるので、たまに意外な収穫があるという感じです。


 先日帰省した際も久しぶりに会話をしたのですが、「父が養育費を払っていなかったこと」「父が出て行った直後に自宅のガラスが割られ、泥棒が金庫を持っていこうとした事件の犯人が実は父であった」ことも教えてくれました。


聞き出したわけではなく、お話し好きなので勝手に喋ってくれただけなのですが、自分の家族の内情をよく知る大人が身近にいることも、自分にとっては当たり前のことです。



” 不自由ない生活をさせてくれた看護師の母 ”

ーお母さんはどんな存在でしたか?


 離婚する前から今でも看護師の仕事を続けていて、夜勤があったので不規則な仕事をしていました。父が出ていく様子を見ていたのと同じ窓から、母が仕事に出かける車の様子を眺めて寂しい気持ちはありましたが、それが日常でした。


 今思えば稼いでくれていたおかげでゲームを好きなだけ買ってくれたしやらせてくれたので、感謝しています。スーパーファミコンのカセットは200本近くあったと思いますが、先日帰省したときになくなっていたことはとてもショックでした(笑)。


 当時、経済的に困っていたと感じることはありませんでしたし、それに対して母から何か言われることもありませんでした。彼氏がいたかどうかはわかりませんが、いてくれたらいいなとは思っていましたね。

これまで家族のために自分を犠牲にして働いてくれていたと思うので、幸せになって欲しいと思います。


” 断りづらいので会うが、気まずい空間 ”

ー家を出て行ったお父さんについてはいかがでしょうか。


 離婚に対しては何があったのかいまだに聞けておらず、今後聞く気もないのでなんとも言えませんが、離婚後は年1回程度、姉弟3人と食事に連れて行ってもらう機会がありました。といっても、久しぶりに会うのに日常のような会話をし、学校の話や部活の話をしただけです。自分は気まずかったので、喋るのが得意な姉にその場をまかせて傍観していた印象ですね。


 父とは連絡を取れる状態ですがもう10年以上会っておらず、姉弟抜きの二人きりで会った記憶もありません。母とはおそらく離婚後一度も会ってないと思います。中学のバスケ部の試合に、一度だけ予告なく父が見に来てくれたのは嬉しかったですね。

 

 定期的に会っているわけではないですが、成人式のときにお酒を飲みにいったり、突然Facebookで友達申請をしてきたり、自分のことが気になっているとは感じています。ただ、やはり気まずいので自発的に会いたいとは思いませんが。




” 自分の置かれた環境が、その子にとっては当たり前 ”

ーシングルキッズとして育ったことをどうお感じですか?


 子どもの頃から父がどこで何の仕事をしているか知らなかったので、就職活動を始めてから世の中に多種多様な仕事があることを知り、「サラリーマンってめっちゃ種類あるじゃん…!」と驚きました。


なんとなくスーツを着て仕事をする人というくらいのイメージしかなかったので、業界や職種を知るために100社くらい説明会に行ったんです。入社した会社には父親世代の方が多く、怒鳴る人もいたので居心地が悪かったですね。


 その後さらに多様な働き方に触れたことで会社を辞める決意をし、今では個人事業主として自分に合ったスタイルの働き方が見つかったと感じています。


 シングルキッズだから苦労したと思うことは何もありません。もしかしたら幼少期の経験が多少性格に影響したかもしれませんが、同じ境遇を経験した3人の姉弟の性格はそれぞれ全く違っています。姉は昔からよく喋るし、甘やかされていた弟は今でもその片鱗があります。


ー最後にメッセージをお願いします。


 シングルマザー・ファザーの方に対しては、「子どもの心境としては結構、普通だよ」と伝えたいです。母も、シングルになったことに対しては説明がなかっただけでなく、悪かったと謝られたこともありません。


 我が家ではこれが当たり前なんです。それぞれの置かれた環境が、その人にとっての普通なのではないかと思います。


取材を終えて

終始、笑顔でひょうひょうと質問に答えてくださった千代窪さん。最後にお話しいただいたとおり、シングルマザーの元で育ったことは自分の中では当然のことで、それが何か悪影響だったという捉え方はしていないとのことです。筆者の私を含め、子育て中の片親には、離婚したことを申し訳なく、後ろめたく感じている方も多いと思います。しかし子供目線での唯一無二の自分の人生に、親の離婚は大したイベントではなかったりするのですね。余計な心配や後悔をするより、母も前向きに日々の人生を生きることが大切なのだなと気付きました。取材協力、ありがとうございました!


インタビュー:MISAKI

取材日:2019年12月14日

(※記載内容は取材時点)




 インタビュアー:MISAKI   千代窪さん


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